今日の福音3.25

今日の福音(2012年3月25日)

すべての人に

(ヨハネによる福音書12章20~33節)



 イエスはエルサレムの都に入った後、弟子たちに、自分自身がこれからどのようになるのかを語られます。イエスは、自分が父なる神の栄光を受け、また自分が父なる神の栄光を現すことになるが、それは自分が死ぬことである、とはっきりと言いました。弟子たちにとっては、イエスがいよいよこのエルサレムで神の栄光と権威をはっきりと現わし、救い主メシアとして決定的にこの世界に君臨していくものと思っていました。しかしイエスは、自らが死ぬことによって、神の栄光を受け、神の栄光を現す、と言います。
そのイエスのあり方が、イエス自身の言葉で語られます。「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。」と言います。麦の実一粒は、地に落ちて死ななければ、いつまでもたった一粒でそのままです。しかしその一粒の麦が地に落ちて死ねば、多くの実を生むことになるのです。
 イエスはこの一粒の麦のたとえを用いて、自分がこれから身に受ける、十字架の上での「死」について、私たちに明らかにします。自分が十字架の上で死ぬことは、挫折や失敗や滅びではなく、多くの人々に「仕える」ことなのである、とイエスははっきりと言っているのです。イエスが十字架の上で死ぬという「仕える」ことによって、多くの人々が生かされていく、ということなのです。
 これは、律法を与えられて人々が生かされていくことができるという、かつての旧い約束(旧約)とはちがいます。イエスが私たちに仕えることを通して示された「神の愛」によって、私たちは生かされていくことができるのです。この新しい約束(新約)が、今、私たちすべての人に与えられているのです。
 イエスが十字架につけられる、ということは、多くの人々が生かされてすべての人がイエスに引き寄せられることであり(32節)、神の栄光がこの世に満ち溢れることであり(28節)、この世の支配者である悪が追放される(31節)ことです。