今日の福音11.6

今日の福音(2011年11月6日)

「用意をしない」という「愚かさ」

(マタイによる福音書25章1~13節)



 本日の福音書には、古代のユダヤ社会における婚礼の状況を通して示される、イエスの天の国のたとえ話が記されています。古代のユダヤ社会では、結婚が確定して婚礼を行う花婿は、花嫁と一緒に、花嫁の友人たちが待機している所へ行って、その友人たちを連れて、婚礼の会場へ入っていく、というしきたりがありました。イエスのたとえ話に登場する十人のおとめたちは、花嫁の友人たちで、花婿と花嫁と一緒に婚礼の会場へ入る予定で、花婿と花嫁が、自分たちを婚礼の会場へと連れて行ってくれるのを待っていました。しかし何らかの理由で、花婿たちが自分たちの所へやって来る時間が遅れました。十人のおとめたちは皆、花婿の到着を待っていました。しかしこのイエスのたとえ話で示される結果には、決定的なおとめたちの違いがありました。五人のおとめは花婿と婚礼の会場に入ることができ、あとの五人のおとめは婚礼の会場に決して入ることができませんでした。この違いはどこからきたのでしょうか。それは婚礼の会場に入ることができなかったおとめたちは、ともし火の油の「用意をしていなかった」からです。花婿の到着が迫った時、「用意をしていなかった」おとめたちは油を買いに出かけて行き、その間に花婿が到着して、ともし火を灯し続けることのできるように「用意をしていた」おとめたちと喜びに満ちた婚礼の会場に入っていきました。
 「用意をしていなかった」五人のおとめは「愚か」だった、とイエスは語ります。聖書の原文のギリシア語では、この「愚か」という言葉は、「モーロス」という単語が用いられています。この「モーロス」という「愚かさ」は、知識や知恵や洞察力がないという意味での愚かさではなく、神の示される真理を無視して自己中心的に生きる姿としての「愚かさ」です。愚かな五人のおとめは、賢い五人のおとめと共に花婿を待っているようであっても、実は、花婿が必ず到着するという現実に真剣に責任をもって臨んでおらず、「用意」をしなくても油は分けてもらえると、自己中心的な考えをいだいていました。
 神は私たちに真理を示しておられます。私たちは神の真理を見つめ、自己中心的な生き方をやめて、神の真理に決定的に生きていこうと「用意している」ことが求められています。「用意している」私たちに、神は喜びに満ちた天の国を備えておられます。