東京聖三一教会の歩み
東京聖三一教会はこういう教会です
東京聖三一教会は、日本聖公会東京教区に属する教会です。
日本聖公会は英国聖公会を母教会とする世界の聖公会のネットワークの一つです。宗教改革の時代に英国聖公会も、ローマ・カトリック教会から袂を分かち、英国の国教になりました。プロテスタント教会の中では、礼拝様式、聖職制度など最もカトリック寄りと言われています。
教会が二千年来、一貫して語り続けて来たメッセージは「神われらと共にいます」という短い言葉に要約することが出来ます。これは、新約聖書だけでなく、旧約新約を貫いて語られている真理でもあります。イエス・キリストの別名はインマヌエルと言いますが、これがまさに「神われらと共にいます」という意味なのです。
この「われら」は、教会に集う善男善女だけでなく、すべての人間、信徒とそうでない人を問わず、すべての人間が含まれています。
東京聖三一教会は、この「神われらと共にいます」という真理を、多くの人々に伝える働きを、色々な形で行っています。東アフリカの子供たちを救う会「アルデナ・ウペポ」の働きがその代表的なもので、アフリカ原産の紅茶を販売することで、支援活動を行っています。
もう一つは「代沢こども文庫」の働きで地元の子供たちに図書の貸し出しと、保護者の教育相談を行っています。これ以外にも、さまざまな活動をしていますが、東京聖三一教会の礼拝、司牧、もすべて「神われらと共にいます」という真理を体現したものであることを目指しています。
築地時代
1874(明治7)年創立された立教学校(立教学院)は1882年(明治15)末、ジェームズ・マクドナルド・ガーディナー(James McDonald Gardiner)を校長とし築地居留地に煉瓦建て三階の新校舎を建て、ミッションスクール第一号として明治政府に認可され、同校の学生および築地を中心とする周辺の信徒、求道者が教室で、翌年からは講堂で立教教会の名称で集会を始めました。
さらに1889年(明治22)、同校に隣接する築地三十九番に赤煉瓦造りの教会が築地の各集会所の会衆と、深川聖三一教会(後の真光教会)から分かれた会衆によって発足しました。今日の東京聖三一教会がここに誕生しました。
聖三一大聖堂
赤煉瓦の聖堂は,東京教区設立まで北東京地方部大聖堂で、聖三一教会は主教座聖堂として聖三一大聖堂と呼ばれるようになります。また1923年(大正12)5月17日には、日本聖公会初代東京教区主教選挙が当教会で行われ、元田作之進師が選任されました。
その当時の聖三一教会の付属事業として貧児救済事業がありました。それは最初、東京救育院と言いました。1891年(明治24)10月28日の濃尾大震災で両親、家族を失った孤児救済をきっかけに聖三一孤児女学院を新設、翌年四月、北豊島郡滝野川村に約五百坪の敷地に施設を建てました。同院は1897年(明治30)精神薄弱者教育事業としてのいまの滝乃川学園(国立市)となりました。同年5月15日に行われた同園礼拝堂献堂式は、ウイリアムス師の後任監督であるジョンマキム師が司式し「滝乃川聖三一教会」と命名しています。
1923年(大正12)9月1日、東京、神奈川県を中心に突如、大震災に見舞われました。関東大震災です。東京から太平洋岸までの南部地域は、ほぼ壊滅状態となりました。聖三一教会のほか深川真光、聖救主、聖パウロ、聖ヨハネ、諸聖徒、聖愛、神愛、神田基督、月島の諸教会が焼失しました。この時、マキム主教は「すべてのものは失せたり、残るは主にある信仰のみ」と米国聖公会に打電しました。
青山時代
1927年(昭和2)7月、港区赤坂・青山南町一丁目にかねて建設中の鉄筋コンクリート建ての新聖堂と会館が完成しました。同聖堂と会館は東京教区会館としても使用されていました。この聖堂も1945年5月25日、当時、陸軍第十四師団司令部に接収されていた聖三一教会の青銅の屋根に多数の焼夷弾が落下し焼失しましたが,50年復興,以来しばらく主教座が置かれ、敷地内に主教邸が置かれました。1950年(昭和25)の第27回教区会から1959年(昭34)の第37回教区会まで、教区仮聖堂としての役割を果たしました。
青山聖三一教会
インマニュエル教会
現在の地 世田谷区代沢
60年都市計画の一環としての青山通りの道路拡張計画に伴い、①教会、会館とも建造物としての欠陥が顕著で、補修費がかさんでいる②東京のドーナツ現象により信徒の居住地に変化が出ている③財政が逼迫している、などの事情もあって移転を決意し、同じように区画整理に伴い移転を余儀なくされていた麹町にあったインマヌエル教会と合同し、新たな兄弟姉妹を迎え入れ、現在地である世田谷区代沢2-10-11に移転、1961年3月21日、礼拝堂の聖別式が行われました。
現在は、司祭 菅原裕治が牧師として司牧しています。 東京聖三一教会